昭和五十六年三月二十五日 朝の御理解
御理解第五十八節 「人が盗人じゃと言うても、乞食じゃと言うても腹を立ててはならぬ。盗人をしておらねばよし。乞食じゃと言うても貰いに行かねば乞食ではなし。神がよく見ておる。しっかり信心の帯をせよ」
例えどんなに悪口雑言言われても、それが一つ一つ苦になったり腹が立ったりするようなことでは、教祖様の御信心を神習わせて頂いておる者とは言えないです。教祖様の御教えを生活の上に頂き行じておるなら、そういう時こそむしろお礼を申し上げるような心が生まれてくるです。これは人からまあ馬鹿の阿呆のと言われても、悪口雑言言われても、だけではありません。様々なまあ難儀の時にあっても同じです。
本当にまああれは石川啄木でしたかね、[働けど働けどわが暮らし楽にならざり]まあ悲しい詩ですね。だから、働けど働けどわが暮らし楽にならざりという時に、じっと自分の心を見つめさせてもらう。じっと本気で教えの神髄に触れさせて頂こうとする精進。いわゆる、ここにありますように、そういう時はしっかり信心の帯をせよ。
腹の立つことを言われた。それをただじっと辛抱せろとだけではないのです。腹を立ててはならぬ。やはり自分と。しっかり信心の帯を一段と信心を深めて行く、進めて行く手立て。よしなともして行かねばならぬのです。
昨日、本当にしっかり信心が出来なさるのに難儀が続く。私も御取次させて頂いて、どうしたことだろうかと思わせて頂いて、電話がかかって参りましたから、御取次させて頂いたら、すぐその人の次に山田礼子という方のお届けがあった。皆さんは御理解頂きつけておられるからすぐ分かるでしょう。
どうしてこんなに難儀が続くだろうと。神様はいよいよ力も徳も下さろうとする働きを、そういう時ほど言うならば山とは険しいことでしょう。たとえて言えば受け物ということでしょう。そういう時に、礼子である。そういう時に礼を言えるような信心。それもね言わんならんからではなくて、実感として言えれる時、本当に神様が力を与えて下さろうとする働きを実感しなければならんです。
そこから、成程それは苦しいことに違いはないけれども、有難うございますという山田礼子のおかげになってくるわけです。だからそういう時ほど有難く受けられる信心の構え
というか、姿勢というかを私は作っておかなければならんと思います。
昨日、北野の中村さんの所の宅祭でございました。もう恒例です。もう何十年間行なっておりますけれども、昨夜の宅祭が一番中村さん所のお祭としては有難いお祭でした。もう初めから最後まで有難いなと思わせて頂く。やはりそこのね家庭の方達が本気で信心になっていっておるということですね。
お祭ならお祭が有難いお祭になってくるということは、もう最近といえば、もうここ一二年でしょうかね。あちらの主人であります清さん。あちらは養子さんですからね。もう何十年間何とかタクシーの運転手をしておられます。もうそれこそ、あすこへ神様のお部屋へ参りますと、ぐるりぐるっと無事故の表彰状がかかっている。今年も無事故、今年も無事故と、さほどにもおかげ頂いとるとは言っているけれども、さほどに感じなかったでしょうけれども。
最近、清さんが一週間に一遍のお休みがある。お休みの日に必ずお礼参拝がある。そういう時に、この一週間もうおかげを頂き無事過ごさせて頂いた。それが実感がねここへ伝わってくるようなお参りなんです。この頃。
私がもう何が有難いと言うても、神様の言うならばおかげをおかげと知って、本当に心から日々お礼参拝がさせてもらわなければおられん。御用がさしてもらわねばおられないという程有難いことはないです。これはねたくさんお参りがありますけれども、その実感としておかげを受ければ有難いでしょうけれども。
今日頂きますように、山田から山田が続く時、修行から修行が続く時に、心からお礼が言えれる実感を持って。清さんの場合は、何十年間おかげを頂いてきたことが段々実感として、いわゆる一週間に一遍のお礼参拝。そのお礼参拝がもう今までとは違うんです。そういう信心が芯になってのお宅祭であったから、成程有難かったのであろう。
私共が着かせて頂いたら、もうすぐお湿りが始まりました。もうお祭半ばには、あの雨音がするようにひどく降っておりました。その雨の音を聞きながら、もうリズムに乗ったような気持ちでお祭が仕えられて、もう有難い有難いその神様の言うならばお働きと、または私の神様に向かう心とが一つになって、もうその何とも言えん調和音とでも申しましょうかね。有難いその言うなら御祈念が出来た。有難いお話が頂けた。
昨日も、私がそこで、今申します実感ということについてお話を聞いて頂いたんですけれども、昨日一昨日でした。ある教会の今信徒総代をしておられる方が、十年前に胃癌でおかげを頂き助かった。昨日一昨日が丁度十年目に当たっておった。それでその、まあ月に何回もお参りになりますけれども、わざわざ丁度その日が十年目というのでお参りがあっとった。
昨日久富繁雄さんがああしてお初穂の整理をなさいますから、「先生、私はこの方だけにはもうほとほと感心する」と。「もう十年になりなさるが、もうとにかく命を頂いたという一年より二年目よりも三年目というように、段々手篤い信心とお礼が、とても合楽の人達でん真似ん出来るこっじゃない」ち昨日言うて、そのように言うち話したこつでした
が。本当に真似の出来るこっじゃない。
言うならば、十年前に助けて頂いたということが実感として段々強うなって行かれるということなんですね。それを久富繁雄さんから聞かせて頂いて、「本なこつじゃんの、この人が、おかげ頂きなさる人は違うの」ち言うてから話したことでした。実感なんです。はあおかげ頂いてない命を頂いたと言っておっても、一年一年初めの間は、何何前に命を助けて頂いたと言うてお参りもしよるけれども、段々影が薄うなってきて、お参りもせんごつなってくる人が多いです。
私は信心はどこまでもその実感だと思う。どうぞ皆さん、実感のある信心を有難いという実感のある信心を、私の周囲に本当にあれもおかげこれもおかげと思う、その実感が日々の参拝であり、日々の信心、報謝の、神恩報謝の心ともなり、言うならば、自分の都合の良い時、ことだけが有難いのではない。
これほど信心するのにと、周囲から見たら思われるような人が、難儀が続いておる時にもです。その人の心の中には、山田礼子であるお礼言えれるような信心を育てて行きたい。またそういうふうに育って行きたい。
昨日、久留米から熱心にこの頃、お医者さんの奥さんですけれども、お参りになる方があります。もう本当に、もうとにかく教えがもう日々血に肉になって行くのが楽しみといったようなご参拝です。この頃は、お月次祭、三四回くらい参られたでしょうか。初めてあんなお祭を拝んで、そして川上さん達とご一緒にここへ一晩泊まって、明くる朝の御祈念を頂いて帰られるのです。
こういう、言うなら有難い神様がおられたということがね、有難い。今日もお参りして見えられて、今日の御理解じゃないけれども、いろんな時に腹が立つということは、どういうような信心をさして頂いたら腹が立たんようになるだろうかというお届けでした。
そん時に私は、まあそう言やああります。思い方というか、本当のことを頂くとか分かるとか、けども本当のことを言うて聞かせても、分からなければ仕方がない。親でも言うことを聞かん子は仕方があるまいが。これ程有難い信心を合楽で説かれておるけれども、それを聞こうとも、まあ聞いておっても、分かろうともしないなら、もうどうも仕様がないでしょう。頂こうという構えを作らねば出来ることじゃない。
昨日、高松和子先生が、お届けしてましたが、前の御霊祭のああした盛大な霊祭を奉仕さして頂く前に、一緒に御祈念さして頂きよったら、山吹の花が一杯咲き乱れておるところを頂いたとこう言う。「そうの高松先生、これだけたくさん合楽合楽と言うて参って来よるけれども、そりゃあ御比礼に、言うならおかげを頂くから合楽合楽と言うておるけれども、本当に実になる信者がこの中にどれだけおるのだろうかの」と、それこそ山吹の実一つだになきぞ悲しきである。
花ばっかりでというような本当に実を頂かせて頂くことが有難いという信心。それには今日あたりのように、たとえ人が乞食じゃと言うても盗人じゃと言うても、それに腹の立つどころかお礼が言えれるような心の状態というものは、合楽理念を以てすると分かるの
ですから、それを実験すると、そこにしっかり信心の帯をしようと思うたら、腹の立つどころかお礼の心が必ず出来てくるのが合楽理念です。
合楽理念に基づけば、そういうことは全然問題じゃないでしょうけれどもね。「しっかり合楽理念の勉強をしなさらないといけませんよ」と昨日その方に話したことでしたけれども。「あの教典感話を頂いておられるでしょう。あの教典感話をそういう時には御祈念して開きなさい。必ずあなたが腹かかんですむ、むしろお礼ば申し上げんならんという訳が分かりますよ」と。「あの教典感話を開いてご覧なさい」と。「腹を立つ前にそれを開いてみなさい」と言うて申したことでした。
日頃合楽理念の勉強をさして頂いとりゃ、どういう時であっても、それこそ山田礼子のおかげを受けられる。そういう信心がです。やはりしっかり信心の帯をしておかんと、なかなかいざという時にゃ頂けん。
都合良い、自分の思うような時には有難い。それこそ実感として有難いと思うけれども、私共の周辺に深く広く、いよいよ有難いというものが実感として頂ける信心。どういう場合であっても、そのことに対して、神様の御演出に対するお礼が言えれるような信心。そういう信心を目指せというのが今日のこの御理解じゃないでしょうかね。
どうぞ。